【記事/インタビュー】浦和エリアの老舗のお店
時代変化に対応し続けてきた鹿島湯(かしまゆ)三代に渡る当主の物語。そして、クラファンの実施へ!
鹿島湯
富士山のペンキ絵は日本に唯一の女性銭湯絵師・田中みずき氏によるもの(2021年8月上旬時点)
鹿島湯とは
1956年(昭和31年)創業、さいたま市南区。
薪釜と井戸水にこだわった昔ながらの銭湯。
現在の当主は三代目の坂下三浩氏。
Jリーグに絡んだ自虐コピー、「ホームなのにアウェイ」、「名前のせいで経営難」、「肩身は狭いですが、湯船は広いです」などがTV、全国紙などのマスコミやSNS等で話題となりファンが急増。
「銭湯は癒しの場であると同時に交流の場でもあるべき」という代々の当主の理念を引き継ぎ、現在はイベント会場や撮影場としての貸し出しなどを行うなど、銭湯の新しい在り方も提案しつづけている。
今年2021年(令和3年)12月に65周年を迎える、南区の銭湯・鹿島湯。
今回は、鹿島湯の三代目当主・坂下三浩(さかしたみつひろ)氏にインタビューを行い、これまでの鹿島湯の歴史やこれからの鹿島湯や銭湯のありかたについてお話を伺いました。
前半は、坂下さんから伺った話をベースに鹿島湯の歴史をダイジェストでまとめています。
後半に、今後の鹿島湯や銭湯についての坂下さんのインタビューを掲載しています。
どうぞご覧ください。
[目次]
「鹿島湯」建前にて関係者一同(1956年頃)
鹿島湯初代当主である吉岡源二氏の手によって建てられた。
本業の宮大工業を行いつつ空き時間を利用しての建築であったために、起工から完成までに1年がかかった。
1956年12月、現当主の祖父にあたる吉岡源二氏が別所の鹿島台に当銭湯を創業した。
戦後10年を経過した当時の日本は、1956年の経済白書に「もはや戦後ではない」と謳われ、白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機が家電三種の神器として普及しつつある経済発展目覚ましいころでもあった。
一方で、当時の家庭風呂の普及率はまださほど高くなく銭湯需要は日本中で極まっていた。
吉岡氏の本業は「銭湯専門の宮大工」であり、鹿島湯創業以前にもすでに数十軒の宮造りの銭湯を都内などを中心に建築経験があった。
また、吉岡氏は宮大工を本業とする一方で、「人々の暮らしを豊かにしたい」という気持ちから、「純喫茶」「美容院」などの経営も行っており、その流れの中で自身でも「銭湯」の経営を行いたいという気持ちが強まり「鹿島湯」創業に至ったという。
吉岡氏が、自ら経営する銭湯の創業場所に「鹿島台」を選んだ理由ははっきりとはわからないが、都内各所など含めて数か所の立地を候補として検討していたという。
不思議なのは、最終的に「鹿島台」を選んだという点。
銭湯が井戸水を汲み上げて使用する場合、土地の掘削が重要となる。
いまほど、掘削技術が進んでいなかった時代、1m掘り進めるだけで現在の10倍以上のコストがかかった。
「鹿島台」はその名の通り、ほかの土地と比べて高台に位置するために井戸を掘るとなると圧倒的に不利な状況からのスタートとなる。
銭湯建築のプロフェッショナルであった吉岡氏がその点に気づかなかったはずはない。
それでも、この場所を選んだのは「あえて高台を選んだ」ということも十分考えられると、三代目の現当主・三浩氏は語る。
銭湯が立地しにくい場所で、地域住民の生活に貢献したいという強い意志。
また、そういう場所に銭湯をつくることは、プロである自分にしかできないという思いもあったのかもしれない。
創業後、結果的には「鹿島湯」は地元の人の支持をすぐに得ることとなる。
当初から、毎日お客で賑わっていたという。
白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機が家電三種の神器と呼ばれた1956年、鹿島湯は創業
現当主、坂下三浩氏の父にあたる三夫氏はもともと、吉岡氏の経営する喫茶店の従業員で店のマスターを務めていた。
1966年、吉岡氏の娘・ミエ子さんとの結婚と同時に、周囲の要請などもあり、鹿島湯の二代目として就任。
1960年代から70年代にかけて、家庭の浴室普及率は50%台から60%台に上がってきてはいたがまだまだ黄金期の鹿島湯を受け継いだ形の三夫氏である。
当時の鹿島湯の盛況ぶりについて、三代目・三浩氏には今でも鮮明に残る、以下のような記憶があるという。
1967年生まれの現当主・三浩氏が小学生時代の70年代は鹿島湯はお客であふれ、混雑する時間帯ともなると各洗い場には、座って洗っている人の後ろに3人ずつの空き待ちの客の立ち行列ができていたという記憶。
また、「鹿島湯があって本当にありがたい」といつもお客に感謝され、常連のお客などには「坊っちゃん、坊っちゃん」とよばれ可愛がられていたこともあり、「俺んちって金持ちなんだな」と幼いころは思っていたという記憶である。
鹿島湯二代目を継いだ当時の三夫氏26歳(1966年)
創業以来順調だった鹿島湯に、最初の転機が訪れたのが1980年代半ばから後半にかけてであった。
80年代にはいり、家庭風呂の普及率が急速に上がってきた。
また、1985年のプラザ合意後の不況を懸念した政府が金融緩和策を打ち出したことで、市況は一気に好転。
空前の好景気時代に突入した。のちの世で言う平成景気時代、バブル景気時代と呼ばれた時代である。
日本中で、土地の価格が高騰すると同時に地上げブームも到来した。
利用客が減少傾向にある銭湯は、地上げのターゲットにもなりやすかったという。
そうした中で、二代目・三夫氏は顧客ニーズに適応するための鹿島湯改革を決意する。
創業以来こつこつと貯蓄してきた貯金を崩し、4千万円以上をかけた大改革を敢行。
大卒・初任給がおよそ14万円程度の時代である(令和元年では約21万円)。
もともとが純喫茶のマスターで、その後は銭湯の番台に座っていた三夫氏である。
聞き上手であることもあり、お客のニーズが何であるか?どうすれば鹿島湯は生き残れるか?
日頃の、客との会話などから今後やるべきことはすでに理解していた。
浴場には、当時一般家庭にも普及してきたシャワーを全席設置。
浴室でも、これまで以上に体が癒されるように、ジェットバスを設置し、薬湯の提供も開始した。
入浴中に洗い物をしたいという顧客のニーズに対しては、コインランドリーを併設。
受付も、番台式からカウンター式へと変更し女性客のニーズに応えた。
建物に関しても、それまで瓦屋根だったのをトタン屋根へと改修した。
軽量化して、母屋への負担を減らし、耐震性なども高める狙いもあった。
できることはすべてやる、という三夫氏の決意と改革が功を奏し当時浦和・大宮エリアでも銭湯が減少していく中で、鹿島湯は生き残ることができた。
80年代の鹿島湯
写真左手前がコインランドリースペース
着付け教室なども行っていた
厚生労働省「衛生行政報告」よりまとめたもの
1980年代はじめには、住宅浴室保有率は90%を突破。以降、銭湯数も右肩下がりに。
家庭風呂の普及率が継続的に上がる中で利用客の減少は免れなかったものの、三夫氏の不断の経営努力もあり常連顧客などが鹿島湯から離れることはなく90年代にはいっても鹿島湯は地元で愛される銭湯としての立場を確立していた。
鹿島湯に、第二の危機が訪れたのが90年代後半。
90年代初めに崩壊したバブル景気後、地域で愛されながら経営してきた鹿島湯の前に競合店がたちはだかる。
中浦和駅前にできた、大手企業系列のスーパー銭湯である。
スーパー銭湯は、80年代半ばから日本各地にできはじめ徐々に庶民の間に浸透。
東京では地下に非火山型温泉が眠っていたのがわかっていたが、それが技術の進化で1000m前後でもそれまでより遥かに低コストで掘削できるようになり、都内でも天然温泉を活用したスーパー温泉が登場し始めていた。
「従来型銭湯」と「スーパー銭湯」の大きな違いは、「娯楽性」の有無である。
従来型銭湯が価格を自身で決定できないのに対し(各都道府県が金額を決定)、スーパー銭湯はその娯楽性の部分による差異が大きいとの理由から、それぞれの施設が金額を設定できるという違いがあるというくらい、その差は大きい。
現当主の三浩氏は、そうした「娯楽要素の強い競合が目と鼻の先にできたことで鹿島湯は大ピンチになる」と当時思ったというが、父親の三夫氏は、「鹿島湯」と「スーパー銭湯」では利用客から見たニーズが違うために問題ないと言い切ったという。
「地域の人々の生活に密着した、癒し、交流の場であるのが鹿島湯」「地域の人がちょとしたレジャー感覚を味わいに行くのがスーパー銭湯」その差は大きいと三夫氏は語っていた。
スーパー銭湯のことを考えるより、「鹿島湯の質を守ること」、「地域住民の癒しと交流の場であり続ける努力を怠らないこと」を考えていれば結果はついてくるというのが三夫氏の信念であった。
結論から言うと、そのスーパー銭湯は後に閉店することになる。
レジオネラ菌が発生したことにより、該当のスーパー銭湯が保健所から業務停止命令を受け、そのまま廃業した形であった。
2012年、鹿島湯の継続・後継を考え始めた三浩氏が鹿島湯で働き始める。
鹿島湯の継続を考え始めた直接の理由は、2011年に起こった東日本大震災だったという。
当時ボランティア活動を行っていた三浩氏は、東北の現場へも足を運んだ。
そこで見たのが、被災地において銭湯が果たしていた役割りだった。
銭湯は、その性質上脱衣場にかなりのスペースを割いているため、被災者の方の受け入れ場所としては適しており、高い天井は解放感と束の間の安心感を与えてくれる。
広い浴場に水を入れれば体を洗うこともできる。
まさに、地域の救世主として住人達を受け入れる「場」として、活躍していたのが地元銭湯だった。
「銭湯は斜陽産業なんかじゃない!」
意を決して、父である二代目・三夫氏の下で修業を開始した。
三浩氏が働き始めてしばらくして、桜区の環境センターが開設した。
持ち込まれた市内のゴミなどを焼却したりする施設だが、資源を焼却した際の余熱を利用して浴室やサウナの運営も開始した。
鹿島湯の常連客や利用客の多くは、別所や中浦和近辺の比較的年齢層が高めの住民である。
環境センターは、中浦和駅をはさんで鹿島湯とは反対側に立地するが、中浦和駅からは無料送迎バスが運行され、市内在住60歳以上の年配者は施設使用料無料(現在は100円)というサービスで鹿島湯の経営を真正面から脅かすことになった。
それでも、三浩氏は言う。
「周囲の環境変化は仕方のないこと。僕にはどうしようもない。それに、環境センターができて喜んでいる方も大勢いる。僕や鹿島湯が環境に合わせて変化していかなければいけないと思いました。今でもそう考えています!」
環境センターというかつてない競合を前に経営はひっ迫していき、売上も減少。
さいたま市では従来型銭湯が当時から現在まで10軒あるが、その頃の月商は常に10番目だったという。
銭湯は、典型的な設備投資型の施設であり、日々の頻繁なメンテナンスなどにも資金がでていき、また70年代までの黄金期とは違い、資金繰りをするのもままならないという状況であった。
かといって、そのまま手をこまねいていてはかつてない競合の前に鹿島湯はつぶれてしまう。
追い詰められた三浩氏は、できることから始めようと3つの戦略を打ち出すことになる。
1つ目が、鹿島湯を若い人にも知ってもらいターゲット層を広げるというPR戦略。
2016年、知人でもある若手コピーライターに協力を仰いだ。
「鹿島湯」という、サッカーの街浦和の最大のライバルでもある、「鹿島」の名を冠した銭湯。
徹底的に、この名前をいじってサッカー好きの浦和の街のひとたちにもっと鹿島湯を知ってもらいたい。
そこで生まれた名コピーが、「ホームなのにアウェイ」だった。
このコピーは、マスコミなどで取り上げられた結果、SNSでも拡散され、鹿島湯の認知度は高まった。
一時は、月に250人ほどの増客にまでなったという。
2つ目が、浴室壁面のペンキ絵のリニューアルである。
銭湯といえば、浴室の壁のペンキ絵であるが、それまでの鹿島湯はしばらくのあいだこのペンキ絵がなかった。
宮造りの銭湯で、せっかく昔ながらの銭湯っぽさが残っているのにペンキ絵がないのは惜しい!ということで、2017年、三浩氏は当時3人いた銭湯ペンキ絵師のうち、唯一の女性絵師・田中みずき氏に直接依頼。
さらに、このペンキ絵を描くところを地域の人たちにもみてもらいたいと、「ライブペインティング」イベントも実施。
田中氏の描いた富士の絵は、鹿島湯のシンボルとなるが、さらにライブイベントを開催したことで鹿島湯に新たな転機も訪れた。
三浩氏の行った3つ目の戦略が、銭湯をレンタルスペースとして貸し出すこと。
これは、実は、ライブペインティングイベントに訪れていた近所に住むソプラノ歌手・福島聡子さんの一言からはじまった。
「天井が高くて声が響きますね。ここで歌いたいです!歌っちゃだめですか?」
銭湯は「交流の場でもあるべき」という理念に従えば、積極的に近隣の人や銭湯好きの人に活用してもらうべきと、三浩氏はその場で貸し出しを即決。
その後、映画鑑賞会、落語会、料理教室、そのほかテレビや映画の収録場所として様々な貸し出しを行っている。
先述のソプラノ歌手・福島さんの演奏会は「かしまゆコンサート」という名称で2018年に初開催され、これまでに14回ほど不定期開催されている。
ここ数年で立て続けに行ったこれらの策が功奏し、売上は一時的に回復。
知名度もあがり、地上波などのマスコミなどでも取り上げられるようになった。
高い天井を活かして、コンサート会場として貸し出されることも。
画像は年に数回不定期開催されている「かしまゆコンサート」(新型コロナのため次回開催は未定)が、鹿島湯のために開催した「かしまゆチャリティコンサート」。売上はすべて鹿島湯に寄付された。
三浩氏の努力もあり、一時的に売り上げは回復。
さいたま市内10軒の銭湯中、月間売上で上位に食い込む月も増えてきた。
しかし、そうした中で新たな問題が発生する。
2019年に中国で発生し、またたくまに世界中に広がった「新型コロナウィルス感染症」の大流行である。
2020年4月7日には埼玉県に緊急事態宣言が発令された。
銭湯は、休業要請の対象にこそならなかったものの入場整理の対象となり、鹿島湯の来客数は激減することとなる。
そして、その年の7月には二代目当主である三夫氏が当主の引退を決意した。
何よりも銭湯で働くことが好きだったが、高齢により長時間の労働が厳しくなってきたこと、元気なうちに当主の座を三浩氏に譲っておきたいこと、などのためである。
当日の引退式は、地上波公共放送の全国ニュース枠でも取り扱われた。
そのニュースを見たという、北は北海道、南は沖縄の方から励ましの電話も受けたという。
しかし、三夫氏の引退は、正式に三代目に就任した三浩氏の責任をさらに重いものとした。
2021年現在、鹿島湯は再度変革の時を迎えている。
*以下、三浩氏にインタビューを行いましたのでご覧ください!
2020年7月 引退式、鹿島湯三代目就任式直後の「かしまゆチャリティコンサート」にて
左から、二代目・三夫さん、三代目・三浩さん、歌手の福島聡子さん
鹿島湯三代目・坂下三浩氏
--- こんにちは!今年鹿島湯は65周年を迎えますね。おめでとうございます!
ありがとうございます!
地域の皆さんの支えがありこれまで続けてくることができました。
--- ここまで、鹿島湯の歴史についていろいろと聞かせていただきましたが、ここからは鹿島湯の現状やこれからについてお聞かせください。
よろしくお願いします。
--- 昨年に続き、2021年もコロナの影響が長引いています。鹿島湯の現状について伺ってもよいでしょうか?
正直、大変厳しいです。
去年はお客さんが例年の半分以下まで減りました。
全国で銭湯がクラスターになったケースは無いんですけどね。
緊急事態宣言下でも、銭湯は公共性が高い施設ということで休業要請こそだされませんでしたが実際お客さんは外出しにくい環境というのもあったと思います。
私たちも、季節ごとに柚子や菖蒲の変わり湯などにしても、それをSNSで発信するのもためらわれるという状況でした。
--- 時短などにも対応したのですか?
うちは、逆に営業開始を早めて、営業時間自体は長くしました。
銭湯の常連さんって、開店直後にくるお客さんが多いんですよ。
その時間帯を変えることですこしでも込み合う時間を減らして密度を薄めたいなぁと。
ほかにも、「会話はできるだけしない」「滞在時間はみじかく」などのお願いもしています。
常連さんが多いので、そのあたりは皆さん理解してくれて協力してくれています。
大変たすかっていますよ笑
--- 改めてになりますが、今年で創業65周年を迎えます。お気持ちをお聞かせください。
はい。
感謝の気持ちでいっぱいです。
これからも10年、20年と続けていきたいと思っています。
--- これからも、鹿島湯のお風呂やイベントを楽しめるんですね?
そうですね笑
ただ、あちこちの設備にガタがきているのそれをなんとかしないと、とは思っています。
--- どの設備も定期的にメインテナンスをしながら大切にこれまで使ってこられたと聞きましたが、水釜などはそんなに長く使えるものなんですか?
いや、そろそろ限界です。
水釜もそうですが、煙突も補強したいですし、ほかにも、湯温調整器、洗い場など大幅な改修は近いうちにしないとだめだと思っています。
--- 大幅な改修となると、お金もそうですが時間もかかるのでは?
そうですね。
そのときは1か月ほど休業してまとめて改修したいと思っています。
お客様にはご迷惑おかけしますが、一度鹿島湯を元気な状態に戻してやりたいと思っています。
--- 改修後、鹿島湯は新たな取り組みを進めるというお話がありましたが?
はい。
初代や、先代が培ってきた「お客様の要望に応えて変わっていく対応力」が、鹿島湯が創業以来変わらない強みだと思っています。
今一度、お客様の声をもっとヒアリングして、鹿島湯はどのように変わっていくべきかを考えたいと思います。
もちろん、コンセプトでもある「地域の交流ステーション」という部分は変えるつもりはありません。
その発展形を目指します。
--- お客様からのヒアリングとは具体的にどのような方法で行うのでしょうか?
鹿島湯の改修を行う際、クラウドファンディングを実施したいと思っています。
改修資金に関してはできる限り自己資金から出すつもりですが、水釜の改修に加えて、配管や湯温調整器、洗い場全体も手を加える必要があります。
ひとつには、自己資金で足りない部分を賄うという資金調達のために皆さんのお力を借りたいという思いで実施するのですが、もう一つ、クラファンの場をより多くの潜在的な銭湯ファンの人からの声を聴く機会にしたいと思っています。
クラファンの魅力の一つは、ダイレクトにお客様の声や本音を聞くことができ、潜在的なお客様ともつながることができる点にあると思っていますから。
私の後の代のことはわかりませんが、私が現役のうち、具体的にあと20年は鹿島湯を続けたいと思い、そのための鹿島湯づくりのチャンスと思ってクラファンを実施します!
※編集部注
後日、「まいぷれ浦和」でも鹿島湯のクラファン開始のお知らせをニュースとして掲載させてもらいました。
--- そうなんですね! 鹿島湯の復活を心から応援しています! 頑張ってください。
ありがとうございます笑
鹿島湯三代目当主・坂下三浩さんへの取材を終えてまず感じたのは、初代、先代、そして三浩さんへと時を超えてつながってきた、「お客様の声を聴く」という鹿島湯DNAとも言うべき、遺伝子に根付いているかのような凄み。
高台という不利な立地にも関わらず、鹿島台の住人に求められていたであろう浴場という施設を提供した初代・吉岡さんのプロ魂。
時代の激しい転換期にありながら、いち早く顧客ニーズ(当時はこんな言葉すらなかったであろう)を取り入れ、大改革を実施した二代目・坂下三夫さんの行動力。
そして、現在も新しいことに次々と取り組む三浩さん。
今回の取材は何回かにわたって、休憩中や閉店後の三浩さんを訪問し行った。当然、店内清掃の時間と重なることもあるわけだが、浴場を汗まみれになりながら磨く三浩さんの姿が脳裏について離れない。
記事内でも触れたが、「鹿島湯の質を守ること」を三浩さんに説いた先代の言葉が常に頭にのこっているのだろう。新しいことに取り組みながらも、質を守るために従来続けてきたことはやめない。
鹿島湯が半世紀以上に渡って、地元の人、浦和の人たちに愛される理由の一端が理解できた気がする。
この記事を書いているのは2021年8月。
来月からはじまるという、「令和の鹿島湯改革」のためのクラウドファンディングを是非とも成功させ、20年と言わず、次の代まで繋げていってほしい。
以上、
文責・深沢周右(ふかざわしゅうすけ)
2021年9月7日、二代目・坂下三夫さんがお亡くなりになられました。
謹んで、ご冥福をお祈りいたします。
坂下三浩氏の一日
営業開始後14時~17時までは休憩時間。
17時からは受付に座る。
閉店後に、店内清掃をしたあと自宅に帰らず鹿島湯内で就寝。
*新型コロナウィルス対策として現在は開店時間を通常より1時間はやめています(通常時は15時開店)
薪釜に木片をくべる三浩氏
2021年8月下旬、地上波テレビ局の企画により浴室の富士は赤富士に生まれ変わりました。
名称 | 鹿島湯(かしまゆ) |
住所 | 336-0021 さいたま市南区別所三丁目3-10 |
アクセス | 国道17号線沿い浦和区役所より南(武蔵浦和方面)へ約600m 高い煙突が目印 |
電話 | 048-861-7007 |
営業時間 | 14:00~22:00(最終受付 21:30) |
定休日 | 水曜 |
備考 | 駐車場有り(4台) |
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。
第1回 浦和老舗銭湯・鹿島湯物語 [銭湯] ☆南区別所☆
時代変化に対応し続けてきた鹿島湯(かしまゆ)三代に渡る当主の物語。そして、クラファンの実施へ!
第0回 焼きたてパンの店 エトアール ☆北浦和☆
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